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サパは、1905年・100年以上前にフランスが避暑地に開発したことは良く知られている。そのラオカイ省サパ郡サパ市のお話し。
サパの中心地に差し掛かる前に、「サパ?」(?は声調記号のつもり)という、地名がある。これは、中国語で「砂原」と書いていたそうだ。実際、川筋に白い砂地の平地があった。ついでに、ターフィンというところに行った人もいると思うが、そこは「大平」、ここには鍾乳洞があって、奥へ2キロ程は行ったことがあるらしいがその先は誰も知らない。その鍾乳洞の入り口に「洞大平」の看板がかかっている。シオミティーは「小面地」と書いたそうだ。1600mくらいの高さに、ちいさな盆地があって、モン族が暮らしている。サパのあたりは、モン族・マン族(ザオ族のこと)タイ族などの民族が住んでいるところである。これらの少数民族は、中国からやってきた。文字を持っていなかったから、書いたものというと中国語になる。
さて、フランス人は、「サパ?」と聞いて、「Cha Pa」という地名を取ったそうである。それを、キン族(ベトナム人)が「SA PA」と呼ぶようになって、サパの地名が定着した。
「サパ?」は、橋が架かっているところが中心地で、そのあたりの少数民族の市があったという。市は、バックハー、サパ?、ビンルーなどに立って、日を決めて、皆集まったという。中国からも商人がやってきて、物々交換が行われていた。中国からの商人は、馬の両脇に大きな甕を二つ提げて、その中に布などの商品を一杯詰め込んでやってきて、甕も含めて皆交換して帰ったという。「サパ?」の市を知っている人は、サパ周辺にまだたくさんいて、その当時の盛大な市を覚えていて、昔の市を懐かしがっているという。現在は、サパ広場のそばに市があって、日曜日にはたくさんの少数民族が集まっている。
サパは、2005年に100年祭を開いて、これからベトナムの観光の中心地としての開発がさらに進む。カットカット村の人たち(モン族)も、サパが発展することを望んでいる。いつまでも昔を懐かしがっていられないだろうから、どのように自分達が、サパの発展についていくか、思案しているところであろう。1930年の当時のサパの写真が新しいホテルのロビーに飾ってあった。広場の真ん中には、建物があり、教会はまだ出来ていなかった。この5年間の変化は、その前の50年の変化を超えるスピードだと思う。サパの町がさらに発展していくことを祈るばかりである。
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