日本ベトナム友好協会大阪府連合会/サパ物語7

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2008.5.26up  

 

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カットカット村
 

 サパのすぐそばに、カットカット村はある。
 サパが、100年前に出来たときには、そのあたりには水がないので人は住んでいなかった。近くでは、カットカット、ラオチャイや、ハムロン山の東側にモン族は住んでいた。カットカット村は、サパが開発されるときに、動員された黒モン族が、多く移住したかもしれない。カットカット村のさらに上に新しい村(シンチャイ)が出来た。シンチャイとは「新しい村」と言うことだそうなので、動員組みは、ここへ定着したのかな。
 
 サパは1600mの高さで、まさに寒いところである。避暑地としてよいが、住むには寒かろう。12月から2月頃ごろ、サパ周辺だけが、雲がかかり、霧雨が降り、7-8度くらいまで温度が下がる。・・・2008年1-2月は大変寒くなったので、3軒に2軒くらいの割で飼っていた水牛が死んだ。政府は、緊急に水牛が死んだ家庭には1軒に1頭を支援することを決定した。しかし、相手は生き物なので、実施の予定は年末になるという。・・・家は、土間で、風通しが良いから(夏は暑いから、目を詰めない)なんとも寒いところとなる。
 
 さて、このあたりの山には、トラが出ていたので、モン族はトラのいる山に、勇躍して村を作っていったと言うことになる。彼らは、トラを恐れない、という。トラを見たら「戦う」。鉈を振って、身振り手振りで戦い方を説明してくれた。黒モン族は、勇敢である。
 ちなみに、バンホー、タバーン、ラオチャイの各村などには、タイ族やザイ族など他の民族も住んでいるのだが、このカットカット、シンチャイの両村(正確には、両方まとめて、サンサホー村と言うのだが)には、黒モン族しか住んでいない。
 
 

トラの話
 

 ラオカイ省とライチャウ省の接するあたり、すなわち、サパ周辺には、トラの話が多い。バットサットのザイ族に聞くと、トラを見た、トラは怖いという。でも実際に見たと言う人からの話ではない。直接見たと言う人の話だけを頼りに、最近の2つのトラの情報がある。
 
 1990年ごろ、バットサット郡とライチャウ省の間にそびえる山の川の源流まで、人々は金を探しに登っていった。2500mくらいのところに小屋を作り、たくさんの人を動員して、金を探していたところ、もういないと思っていたトラが出た。皆で探したが、どこかへ行ってしまった。いなくなった。しかし、トラを見た人々は、怖くなってそれ以上金探しをすることなく、山を降りたそうだ。
 
 1995年ごろ、シンチャイ村の山にトラが出た。現在は、ファンシーパン登山道が出来て、人がたくさん登っている道のあたりだ。どこから迷い込んだのであろうか?馬がかみ殺されて、片足を食われたままになっていた。その馬の死がいを見た、黒モン族の老人は、「これはトラに違いない。この状態では、きっと、また戻ってくるだろう」と考えた。老人は、馬のそばに爆薬を仕掛けて、点火装置から電線をのばし、木に登って隠れていた。思いは当たって、トラは現れた。そして、爆破で殺した。
 
 ラオカイからライチャウに向かうには、現在のサパ峠の辺りをとおる。今もそこに昔の峠道が残っている。余り使われていないので、荒れているが、道とわかる。サパが開発されるより前から、サパ「?」やタバーンの人々は、ビンルーで市が開かれるときには、ライチャウのビンルーまで品物を担いで行き来していた。ベトナムの昔話にトラがよく出てくるが、その峠の辺りには、本当に出そうな雰囲気がある。ザイ族の家の扉に、きれいな絵が彫り込まれていたが、トラの絵もあった。
 今は、もうこのあたりにはいないだろうと言う話を聞くと、何か寂しい気もするのだ。ベトナムのどこにトラはいるのだろうね。でも、金はあるらしいよ。今年も、フランス人が銀を求めて山を登っていったと言いますから。
 

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サパの街角話

 サパでは、最近、デンマーク人の若者と黒モン族の女の子が結婚した。お互い英語で会話をして、親しくなったのだ。その彼らは、彼女のラオチャイの家で結婚式を挙げた。
 彼は、自分の予定表を英語で書いて、それを彼女に渡す。その予定表には、何日は何を食べたい、とか書いてある。ところがいっこうに彼女はそのことを実行してくれない。なぜなら、彼女は英語を喋るが、文字がわからないのだ。

 モン族の習慣では、男は家を出るときに、いつ帰るか全く言わない、女が出て行くときもどこへ行くとも言わない。お互いが全く別に生活しているらしい。帰ってきたときに、家で一緒になったら、食事をともにしたりするのであろう。彼らの結婚生活はどのようになっていくのであろうか。

 ザオ族の習慣は、家族思い。家をでた男は、家の外で出会う人に、自分がどういう行動をしている途中であるか、本当のことを言ってはいけないという習慣がある。傍目に見ると、うそつきの典型だが、実は家族思いなのだ。家族と話してそれを実行しているときに、それを他人に話したら、それがうまく行かないと信じているようだ。

 サパには花モン族はいなかったが、最近は、花モン族の民族衣装を着ている女性がいる。サパ市場の少数民族の店のある2階に店を出している人が、花モン族の衣装を着ている。多分、遠くから出稼ぎに来ているのであろう。このところ、サパでは、キン族の女の子達が、モン族の格好をして歩いたりしているから、これもまた、そうなのかもしれないけれど。

 旧暦の17日、07年の2月4日は、テトの13日前になる。旧暦の30日が大晦日。旧暦は、月歴なのを失念していた。だから、大晦日やテトの当日は必ず新月なのだ。ところで、その17日の日曜市では、サトイモの葉っぱを10枚くらいくるくると巻いたものを売っている人がたくさんいた。お正月用品である。ちまきや何かをたくさん作って、お正月に備える、これからがお正月準備に忙しい季節だ。
 

モン族の弔い

 親しい黒モン族の若者のお父さんがなくなったとの知らせ。その彼に会ったので、お悔やみを言った。2ヶ月前に風邪をこじらせて、死んだとのこと。55歳。 
 風邪を引いて苦しんで、息が出来なくなってきて。その時に家族がやったのは、ショウガの根を切ってきて、それをお父さんの体中にこすり付けたことという。そうしたら、元気を取り戻した。それを4回繰り返した。5回目は、功を奏せず、帰らぬ人になった。日本でも、昔は生姜湯を風邪のときに飲みました。身体を温める効果がある。しかし、サパの冬は寒いから、その寒さに負けたのだろう。家の暖房などないし、土間ですからかなり寒い。モン族の平均的な寿命は50歳といいますから、それを越えて、幸せだったのかもしれない。

 ところで、現地は、土葬である。家の墓地へ運んで、1mの地下に埋めたという。どのように埋めたか詳しく聞いた。東向きの斜面に、頭を西に、足は東に、顔を東の方に向けて、少し腰を曲げたような状態で、埋めてきたという。今は、日本ではどのように葬るかと逆に聞かれたので、日本では土葬はしていない。火葬場で骨が残こるように焼いて、あとで、骨を箸で拾って壷に入れる。その壷を墓に埋めると説明をした。ベトナムでも、ホーチミン市とハノイでは、土葬が禁止になっているというと、驚いていた。ここ、モン族の世界では、土に寝かせて埋めるのだ。
 お父さんのはいていた麻の藍染めの布のズボンを僕は持っている。彼が7年前に売ってくれたのだ。大事にしますと言ったが、そのことを彼はもう忘れていたようだった。

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